Far From Humanity

人類の 人を捨て去る 此の時に 本を携え 海を眺めむ

いまいち乗れなかった『すずめの戸締まり』についての雑感

「すずめの戸締まり」が全国一斉公開しています。

早朝からやってるので、頑張って早起きして見てきました。

 

全体的な感想として、シロクマ先生と同じく「自分のストライクゾーンと違う」というのが大雑把な印象だったのですが、自分の背面の席の方が終始泣いていて他の方の評価も高いようだし、ちょっとその理由がわからずモヤモヤしていたので思考整理のために書いてみることにしました。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

 

 

※以下、ネタバレを含む内容です。

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

「天気の子」以降にあるサクリファイスと天人相関

「天気の子」以降、といっても「天気の子」と「すずめの戸締まり」しかないのだけれど、この2つの作品の根底にあるのが、人の営みがなんらかの形で災害に関連しているという考え方だ。「天気の子」においては雨、「すずめの戸締まり」においては地震なのだが、いずれも人の営みが災害と関連して物語られている。

これを天人合一とか天人相関みたいにいってしまうのは多少大げさかもしれない。新海作品における自然と人との関係やもっとアニミズム的でプリミティブな関係性で、雨乞いのために供物を捧げる神道の考え方にむしろ近い。

それでも、どうしても気になってしまったのは扉が開くのは人が営みをやめてしまった廃墟であるということ、そこに人の暗い感情やなにやらが溜まって扉が開くということ。(そしてナマズならぬミミズが出てくる。)

自然は惜しみなく与え奪うという前提はおそらく私も新海作品と共通した考え方だと思っているのだが、人が犠牲を払うことでコントロールできるとかそういうものではない、と私は根本的に考えている。

この作品では草太(の一族)が扉を締めることをしているが、要石はどう考えてもある種のサクリファイス(生贄)だ。天気の子においても陽菜がサクリファイスだった。

現代においては地球温暖化という人間の営みにが地球環境レベルで影響を与えるという非常に大きな事実があるが、それはサクリファイスによって贖われるものではないし、劇中のテーマにもなっている東日本大震災などもサクリファイスによって防げたものでもない。

自然現象に対してサクリファイスを捧げる、それがある人間社会ではなく、陰ながら世界を守る個人とか少年少女であるというところに、私はとても違和感を感じてしまった。というか、サクリファイス自体が、結局犠牲にならなかった人間が少しだけ寿命を生きながらえるという利益を得ているので、これは結局人間社会のためのサクリファイスだともいえる。

他の多くの人間のために、誰かが自身をサクリファイスとすることを、私は良しと考えられない、というのがこの違和感の根底だろうと思う。

とはいえ、新海作品ストーリーでは最終的にサクリファイスを否定するところに行き着くので、私がもやもやしてしまうのはおそらくその仕組を提示すること自体なんだと思う。その仕組自体が嘘だと、それは自然から求められているものではないと、人間社会の狡猾な欺瞞だとどうしても思ってしまうんだろうな。

 

自分を救うのは自分であるというテーマ

これは少なくない人が感じていたようだが、別なアプローチによる「ピングドラム」だということ……私もそう思った。

 

 

災害の要素を抜きにして見れば、過去の自分を未来の自分が救うというパラドキシカルな要素が「ピングドラム」との共通点だ。

扉の世界には時間の流れがないので、「私は私によって最初から救われていた」という事実だけが残る。「ピングドラム」風に言えば、「運命の乗り換え」だ。

「すずめ」はこれが後半突然出てきて、そこで多くの語られていないことがつながった気がした。

鈴芽がなぜ扉をあけることができたのか、なぜ初対面の草太が気になったのか、なぜ椅子を依代に呪われてしまったのか、……(小説版をまだ読んでいないので、大いに勘違いしている可能性はある。)

 

しかし、自分を救うのが自分……というのはなんと残酷な話ではないだろうか。ある意味現代的とも言える。

私自身はこれに対して回答をもっていないというのも悲しい。

 

ループ性について

 

これについてはもう一度映画を見るなりしないといけない。

ただ、物語をループさせるのではなく視聴者をループさせる仕掛けではないのかと思えた。

書きながらだんだんもう一度見たくなって来たので、もう一度見に行ったあとにまた感想を書こうと思う。