Far From Humanity

人類の 人を捨て去る 此の時に 本を携え 海を眺めむ

垢抜けた新海映画と取り残された俺についての試論(「すずめの戸締まり」感想)

新海誠の新作「すずめの戸締まり」でどうにも腑に落ちないところがあって、2回めみて来ました。

自分的にもやもやしていたものの原因がわかって「それか!」となったので改めて記事を起こします。

 

 

 

※「すずめの戸締まり」の内容に関するネタバレを含みます。ネタバレを避けたい方は以下読まないようにお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秒速5センチメートル」はもう作られないのだという事実を突きつけられた

 

「すずめの戸締まり」(以下「すずめ」)が描いている人物がみな常識的で等身大の行動を取る。あえていえば家出状態の鈴芽がアウトローなところだが、これも「扉を閉じる」というきちんとした理由があるので不自然でない。

他の作品、例えば、「天気の子」では帆高が島を飛び出した理由はよくわからないし、「君の名は」においても瀧の行動は結構突拍子もない(宛もなく糸守探しに行ったり)。

道中で鈴芽があう人たちは鈴芽を時には叱り、時には助け、時には家族に連絡しろといいながら、見送り、見守り、あるいは一時よりそう。

何より草太。最初から鈴芽を危険に晒そうとすることなく、「君は逃げろ」と言い続ける。(結局鈴芽から飛び込んできてしまうが。)鈴芽の家族を心配し、自分で責任を巻き取ろうとする。鈴芽の無茶を叱らない、子供のマクドがこぼれないようにする、女子の会話を聞いていないふりをする()など極めて常識人に描かれている。

物語の中で悪意だけを担うキャラクターが出てこない。悪い要素はあるが、いいことも悪いことも合わせた要素で描かれている。

振り返って、初見の映画においては、私は正直色眼鏡でみていた。誰が悪となるのか、裏切るのか、突拍子もない行動をとるか、新海特有の男性的コンプレックスの表出はあるのか、など。だが、改めて見ると、「すずめ」には新海の過去映画特有のコンプレックス的な表現が全然なかった。意識的なのかは分からないが、過去作品、特に「秒速5センチメートル」(以下「秒速」)以前の新海らしさのあるストーリーやキャラクターは完全に脱色された内容だった。

これに私は大きな肩透かしを食らったのだと気づいた。私はどこかで「秒速」や「雲の向こう約束の場所」(以下「雲」)のようなものを求めていたのだ。

これが、映画初見の際に私に非常に大きな戸惑いを残したに違いなかった。私のような古いオタクはいつまでも過去にコンプレックスにすがっていて……、これはそのような我々向けて作られた映画ではなかったのだ。

もう「秒速」は戸締まりをして、今の映画を見よう。私の映画初見は戸締まりのためのものだったとも言える。あるいは、私のようなコンプレックスを抱えて育った人間は永遠に取り残されているのかもしれない。「雲」の塔のなかに?

とにかく、もう新海映画では「秒速」や「雲」が描かれることはないんだろう、そしてそれらを好きな二十歳くらいの私はもうクローゼットの中にしまい込んで出かけるのしかないのだと、そう感じた。

 

「すずめ」は東日本大震災をほとんど真正面から受け止めて、表現している

鈴芽の黒塗りの日記、最初の常世のシーンからなんとなく暗示された東日本大震災は、後半に至ってほぼほぼ直接的に表現されているといっていい。

パンフレットのインタビューでも言及されている通り、「シン・ゴジラ」や「君の名は」など震災を暗喩するような映画や作品は多く作られたが、これほどまで直接的に描かれたのはなかったように思える。

小鈴芽(パンフレットの表現より拝借)が常世で誰かにあい、そしておそらく救われるシーンが冒頭から提示されるが、視聴者は母親だろうと錯覚する。

我々の生活、善意、悪意、祈り、供犠、自然への配慮とは関係なく震災を含めた災害はやってくる。生き残ってしまったもの、特に大切な誰かを失って生き残ってしまったものについては、生き残った意味を考えざるを得ない。サバイバーズ・ギルトという言葉もある。

とにかく、この「すずめ」の根幹にはそのような生存の意味性が通底しているように思える。

「すずめ」において、小鈴芽を救って現世に戻したのは母親でも草太でもなく、未来の鈴芽。生存の意味性はおそらくその後に続く時間、歴史によって満たされる、「あなたはおとなになっていく」という言葉にすべて集約されていると思う。(なおこのシーンで私は滂沱の涙)

生存の意味が結果に従属するというある種本末転倒な関係で、ありていにいえば「あなたが今生きる意味は、未来によって満たされる」というおかしな論だが、この映画を通じて多くの人に伝わるのではないか。「死なないで」みたいなポスターよりも、もし正しく伝わるのであればよほど力があると思う。

 

鈴芽の成長(主に価値観の変化)

明確に、おそらくかなり意識的に鈴芽の成長が描かれている。

2回め見て気づいたが、鈴芽の言葉の節々からかなり刹那的な死生観が序盤ではよく現れている。

「生きるか死ぬかなんてその時の運」(ごめんなさいはっきりとセリフ覚えていない)

「死ぬのは怖くない」

のようなかなり達観した考えをもってるし、それを裏付ける行動もしている。

背景には幼い頃常世を見たということと震災で母親をはじめ多くの身近な人を失ったことが影響していることは想像に容易だ。

それが、要石となっている草太を命がけで助け、その記憶(感情も)を共有し、生きたい、生きることを大切にしようと思う、それが小鈴芽にいった鈴芽のセリフにあらわれていると思う。

草太は要石の役割を押し付けられたとき、自らの役割をしっていながらももう少し生きながらえたい、まだ現世でやるべきことがあると結構強く思ってたんだなあ。これは鈴芽の価値観と結構対局にあって、鈴芽にすごくいい影響を与えた。

これは、……もう結婚するしかないじゃん。。。

 

結婚といえば、環さんと芹澤はあれは結婚しちゃうんじゃねえのか。芹澤が宮崎の教員試験に受かっちゃったりしてさあ……。

 

「椅子」はどこから来たのか?あれは常世のもの?

物語の重要なファクター「椅子」なんだが、三本足の椅子、最後に鈴芽から小鈴芽に渡されるんだが、結局どういうフローで現世に現出したのかよくわからなくなってしまった。

おそらく小鈴芽が持ち出した3本足がもともと常世のもので、だからこそダイジンの呪いの依代、要石となったんだろうけど……。まあそこは深く突っ込まないでおこうと思った。

 

まとめ

タイトルの通り、非常によく構築された、新海映画集大成という名に恥じない作りだと思う。

ただ、私は今も心の何処かで「秒速」や「雲」のようなめんどくさくてしょうもない新海映画を求めていて、ああ私は取り残されたんだ。早くお前のしょうもないコンプレックスに戸締まりをして、現世で生きていきなさいという言説的ケツバットのようなものを勝手に感じたので、しょうもないケチつけながらひいひい今日も生きていこうと思う次第。